前回の記事で、三上寛のライブステージをときおり映画のように感じたと書いていました。
NHK『100年インタビュー』という番組で、宮崎駿氏が「映画は一度見たらそれでよいもの。そのとき感じたことがあればそれを持ち続けていればいい。」と言ってました。この「一度見たら」というのは極言だと思うわけで、“連続して何度も見ることはない”という意味だったのだろうと思うのですが、これは観る側にとって大事なことかもしれないんですね。
ダイアモンドを一個持っているとします。
そこへもう一個、同程度のダイヤモンドが入手できたとします。
そのとき、2個目のダイヤへの満足度は最初のダイヤよりも低くなります。
それが3個4個と増えてゆけば、それらは同程度のダイヤモンドであるにも関わらず、入手したことに対する満足度は減ってゆくことになるんですね。
このような作用は「限界効用の逓減」と言われ、モノやサービスを消費する際に発生する、価値の変動を考えるための概念です(なっなっ、ときにはちょっと難しいことも言っとかないとなっ)。
で、なんでこんな話なのかといえば、「限界効用の逓減」はモノやサービスだけにとどまらず、映画や音楽ライブから得られる印象にも発生するのではないかということなんですよ。
私にとって35年ぶりであった三上寛のライブは“おわぁ~っ!”で始まり、その感慨は終演まで細ることは無かったのでありますが、帰り道に考えていたのでありますよ。
3ヵ月後にこの同じライブを聴いたならば、、“おわぁ~っ!”は今のと同じ“おわぁ~っ!”なのであろうか?。そして、さらに三ヵ月後に聴いたならばその印象はどのようになるのだろうか?
たぶんね、現時点での“おわぁ~っ!”の大きさは維持出来ないはずなんですよ。年に3回くらい三上寛のライブを聴いたら、それがいつもと変わらぬ渾身のライブであったとしても、3回目は“ん~、いつもの寛さんだなぁ”という納得しか残らないのではないかということです。
ワタクシ、これまでは、気に入ったミュージシャンがいるとライブがあるたびに“おっし!行っとこっ!”で、ライブに出かけていたわけですよ。年に3回くらい同じ人を聴きに行ったりしてましたね。でもですね、「限界効用の逓減」っていうことを考えると、“行っとこっ!”じゃないだろうっていうことになってくるわけです。ライブっていうのは毎回その出来が違うのではありますが、ひとりのミュージシャンのライブから得られる感慨というのはそうそう変わるものではなくて、その間隔が短いと「逓減」が発生するわけです。これはね、聴き手として決してよいことではないんですよ。聴き手は聴き続ければいいってもんじゃないだろうと、「聴く」ということを考える必要があるだろうということですよ。
ですからねぇ、年に一回ってとこじゃないかと、そう思っておるわけですね。
いくら気に入っても年に一回、というところじゃないかと。
まぁ、こんなことを今は考えていても、ライブのインフォメーションを見つけたら“おっし!行っとこっ!”になるかもしれないですけどもね。
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